素敵企画もしりんさまへ提出させて頂きました。
一口ですら勿体ない




永い間を過ごして結局の処、連れ添う羽目となったのは退屈という厄介極まりないものであった。呼吸や瞬きなど、そういったことを絶え間なく行わなければならない縛りがあるといっても、無意識の枠内へと沈んでいるのでそれらはまあよいだろう。だけれども、ふと意識を傾ければいつ何時でも此方を見つめ、視線に気付けばしてやったりと微笑んでくる徒然の類はどうにもいただけない。
そうであるから愉しみを自ら定めて趣味と戯れることにしてからというもの、幾分マシだと言うことが許容出来得るようになった。そうして、今現在その拘りに存在の消滅を勧められているのだけれども、此度のことはきっかけに過ぎず、要するに生の継続自体に飽いたということなのであろう。


吹き溜まりと形容するに値する路地裏に、万が一回収され、弄り回される冒涜(己という存在の定義からしてあればの話だが)のないようにと街に姿があっても支障のない獣の形をして、声帯を震わせる気力も起きずに長毛である体毛が汚れるのも捨て置いて、空の胃を抱えてただただ身を横たえていた。
すると喉は動かずとも鼓膜は震えた。己と足して割れば丁度のよいくらいに血の気の多い複数の年若い声が、手向けの代用なのか暗がりに響く。
地を這う生き物ではないというのに、無惨にも血に汚れた羽根を散らばらせた鳩が点々と転がっているその脇で、不平等な喧嘩が起こっていた。相対する構図が分かるのは人数のある側が固まっている為である。それなりに人間の営みを間近で眺めてきたものだから、平和呆けしたこの国でも諍いが発生することを知っている。だが気迫から判断出来得る程に明暗が分かれているのも珍しいので、暫し鉛のように重量のある目蓋を押し上げて見入った。
やがて一人というのに鳩殺しをした全員を沈め、幾つかの手傷を負い息が荒いままに地に座り込んだ少年の元へと、好奇心という何よりの動力から、残る力を振り絞って擦り寄った。
まだかろうじて濡れている鼻先を傷で熱を持っているであろう箇所に押し付ける。此方の存在に気が付いた少年は、疲労で休んでいるのかそれに応えて頭を撫でてきた。恐らく少年自身、慣れていないのであろうぶっきらぼうさはあるけれども、血の滲む拳からは想像するのが少々簡単ではない程に大層優しい手付きでいて、思わずうっとりとする。
お前俺が怖くないの、と小さな声で訊かれたので、否を返事するように更に鼻を擦り付けた。滲んでいる血を舐め取れば、擽ったそうに笑んだ。もう既に己の足で歩くことすら出来ない様子を察したのか、これまた優しく抱き上げられるのにも抵抗しなかった。

与えられた清潔で柔らかなタオルから身を起こす。時刻は夜の真ん中、己らの活動が最も活発になる頃。絆創膏やガーゼをあちらこちらに貼り付けた、深い睡眠にいる寝顔を見遣る。他に起きている人間の気配もないので、獣の、つまり犬の姿を本来のものへと戻す。健やかな呼吸に緩やかに上下する胸の上、肩口付近の喉元へ静かに飢えて乾燥した唇を寄せた。長年使い込んでいるので加減はお手の物である牙でもってほんの少しを頂戴する。理性を総動員して得た、この一滴だけで充分であった。趣味の一つとして嗜んだ美食により、すっかり我儘で好みが定まってしまった舌でさえも感嘆する、とても甘やかに感じる程のものであった。
返礼をせねばなるまい。否、それ以前に己はとても幸運な出逢いを果たしたのだろう。ならば手筈を整えてしまわなければ。
そう決めたので、さて善は急げとばかりに早速窓枠に足を掛け、軽やかに夜の黒へと溶けるように飛び込んだ。




*




おおよそを秀でる優れた弟のみならず、度々につまらない挑発を買い付けては喧嘩三昧をしていた出来の悪い己でさえも引き取った胆力のあるらしい者は、学校の理事長を務めていた。趣味人でもあると言えどもかのひとは、長らくその責務を全うしている能力のある者なのだと、入学もさせてくれた学校の教師や親経由で聞き及んだ生徒から評価を仕入れた。
一般の基準から外れない価値観も備えて世間を上手に泳いでいるというのに、何故己も施設から引き取ったのだろうか。雪男が己の見ていない処で気を回したのだろうか。僻みなく自慢である弟の負担になどなりたくはなかったと、やるせなさをついごちってしまってはその度々に兄さんが居たからこその現状なんじゃないかなと、双子でありながら出来の違いが大きい為思考の把握が困難な弟は嘆息する。報われていないね、とも付け加える。

思い返すは、とある夕暮れのこと。その前夜も喧嘩を経てしまい傷を幾つかこさえていた。自己嫌悪に陥るありきたりな一日で終わりとなる筈であった。だけれども、唐突に面識もないにも関わらず即決の一言で己含め双子を引き取ると、義父となることを施設に申し出た者が現れた。もしかすると初対面ではないかもしれないが、記憶力の確かな弟の人物ファイルにも引っ掛かることがない上に、そもそも学校の理事なんぞをしているご立派な身分の方と繋がる伝手もない。
己が乱暴なばっかりに損を喰らう弟さえ幸せになれるのならと、別れ離れになるのも厭わないと、養子の話を耳に入れて一番初めに願ったのだが、どうも話が進むにつれ己こそを引き取りたいのだと主張しているようにしか聞こえない。狐や狸に騙くらかされた思いで、目出度いことなのだからとあれよあれよと言われるがままに話を呑んでいた。
そうして由縁も尋ねられないままに幾年かが過ぎるのであった。


朝に行われる会議に出席する予定が入っていない日の義父の過ごし方は、常に早出をする弟と比べて至極ゆったりとしている。ほぼ週の殆どを占めるものだから、朝はそう決めているようだと胡乱気な視線を遣せば、重役出勤なのだとのたまわれている。
己の唯一の長所と言っても過言ではない料理の腕でもって朝食を作らせ、作法のさの字もを知ってなどいないこそすれ美しいのだと分かる優雅な佇まいで朝食を摂る。起こされる時にも、些か奇をてらった装いであるものの埃一つとして乗っていないかのひとはいつでも気怠げな空気をその身に纏っている。また不器用さに定評のある己のネクタイを結ぶ際、間近で見る折に分かるしなやかさを宿す指を持つ。声音にわざとらしく冗談を振り掛けるくせして、真面目なことを決して喋らないという訳でもない始末に苦労することもある。内緒話をするのを好む義父の、低くした声音を耳朶に直に注がれる居心地の落ち着かなさはもうたらふく体験している。動揺をからかう傾向が垣間見えるのだから性質がわるい。これら一つ一つが、幾年伴に暮らして覚えたことであった。
漸く出立しようという頃合になれば、朝の定例となっていることを思い出して心地が少々騒ぐのだけれども、そんな様子も愉しんでいるふうな義父であるメフィストが、やはり至極愉快げに言の葉を掛けてくる。俺も、これから学校行くんだけども。悪戯っこのする目で乞われて毎朝なし崩しになる。
「燐くん、」
はいはいとおざなりな返事をして、髭が当たらないようにと今朝も気を付けて唇を寄せ、いってらっしゃいをした。




*




人のはびこる世に順応した己らにとって、日の光も十字架も、勿論ニンニクさえも至って支障を作らないものである。影だってきちんとある。
いってらっしゃいの触れるだけのキスを貰ってから出勤した理事長室で、期限が自ら迎えに迫ろうとしてくる順に並べた書類を片付けていた。
見下ろす度に覗く鎖骨から喉仏の出てきた喉元を視界に入れれば、あの夜以来忘れられずに行っている毎晩の一舐めを舌が思い起こす。本当は贅沢にもう少々欲しい処であるが、貧血なんぞ起こさせたくなどない。
己の義父が人ではないと知ったら、燐はどのような顔をするのだろう。折角手に届く圏内に囲ったというのに、家出されてしまってはとても困るのだ。日に当たることも教会で誓い合うことも、思い出に写真に写ることも可能であるからと、どうにか煙に巻いてしまえないだろうか。

もう貴方以外の血を啜ることなど到底成し得ないのだから、どうか傍らに居て欲しいのだけれども、と、口説き文句を今日もまた結局は貧血気味の脳で検討し直すのであった。